「ゲームとは何か。そしてゲームはなぜ面白いのか。」
「ゲーム」イコール「ビデオゲーム」になってしまって久しい。ビデオゲームが登場した1980年代が黎明期だとすると、1990年代が繁栄と変質の時代であり、 2000年代は絶頂期かつ衰退の時代である。その徴候がだんだんと顕在化しつつある。 なぜビデオゲームが衰退に向かっているかというと、ゲームの本質を見失っているからである。1980年代のゲームは本物のゲームをコンピュータ上に載せるので精一杯だった。1990年代になって、ビデオゲームに様々な素晴らしい要素が付け加えられた。そして現在、1990年代のビデオゲームを踏襲してさらに様々な要素を付け加えようとしている。 しかし、ビデオゲームにあまりにも様々な要素が付け加えられすぎたせいで、本来の「ゲーム」が相対的に薄まってしまった。「ゲーム」の本質を見直さないでどんどん新しい要素を付け加えるだけでは、ビデオゲームの中の「ゲーム」はどんどん薄まっていくばかりであろう。 最近、昔のゲームのリバイバルが多いのもここに原因がある。もちろん安くできるからという理由もあるのだろうが、最近のゲームが昔のゲームより質が劣るから、皆最近のものより昔のものをやりたがるのだ。 ここではゲームの本質について考えてみたい。ゲームとは何であり、どうすればよりゲームらしくなるのか、である。 この文書で「ゲーム」と書いた時、この言葉は辞書で「ゲーム」を引いて出てくるそのままの意味であるととらえてほしい。将棋もテレビゲームもサッカーもゲームだし、英語で言えば狩りもゲームだ。そして「ボードゲーム」と書いた時には、盤と駒を使ってテーブルの上に皆集まって遊ぶゲームだけを言っているものと解釈してほしい。そしてここで言っている「ゲーム」という言葉が一番ぴったりくるのがこのボードゲームだ。 別にボードゲームをひいきしているわけではない。ボードゲームは物理的な制約が非常に多いため、ゲーム以外の要素を混ぜることが難しいからだ。 「ビデオゲーム」と書いた場合には、ゲーム機やPCなどで遊べ、一般にゲームと称されているものを指している。ここで論じている意味においては「ビデオゲーム」≠「ゲーム」である点に注意してほしい。 はじめに、本文書で何を論じたいのかを述べておこう。よく「ゲーム性」と呼ばれるものの本質をつきとめるのが本文書の目的である。「ビジュアルがすごい」とか「音楽がいい」とか「ストーリーがすばらしい」というのはゲームをやってみれば何となくわかるし、どこがどういいのかも見当がつく。しかし「ゲーム性」というものだけはこう簡単にはいかない。シンプルなルールでもすごく面白いこともあるし、凝ったゲームでも(というよりは凝ったゲームの方が)面白くなかったりする。他の要素をすべて取り除いて、ゲームが持っている面白さとは何だろうかと考えるのがここでの目的である。 というわけで、この文書で使う「ゲーム」という言葉は世間一般のそれよりずっと狭い意味で使っている。そこは注意してほしい。中には特定のゲームをけなす発言もあるだろが、それはあくまで「ゲームとして」である。ゲームにはゲーム性以外の様々な要素があるから、ゲームでないからといって面白くないわけではない。映画やマンガのように、ゲームでなくても面白いものはたくさんある。 ここで書くのは「ゲームとしての」面白さについてだけであり、その他の要素については書くつもりもないが見下しているわけでもない。良いストーリーの作り方については小説作法を参考にすればよいし、良い絵の書き方は美術書を参考にすればよい。ここでは純粋にゲームを論じたいだけである。 この文書内で使用する略語についてここで解説しておく。 STG シューティングゲームの略。最近では画面に向かって銃を撃つ「ガンシューティング」や、3D空間を歩きながらカーソルで敵を敵を狙って撃つFPSもシューティングゲームと呼ばれるが、筆者はSTGというとどうしても戦闘機が弾を避けながら敵を撃つ(横/縦)スクロールシューティングを思い浮かべる。本稿ではSTG と呼ぶときには大抵スクロールシューティングのことだと思ってもらいたい。 SLG シミュレーションゲームの略。しかし「恋愛シミュレーション」なる言葉が出来て以来、この言葉は急速にわけのわからない言葉になってしまった。筆者はSLGと聞くと六角形のマスの上にコマが乗っているものを思い浮かべるが、それはここでは「ストラテジーゲーム」あるいは「戦略ゲーム」と呼ぶことにする。 なお、「シミュレーションゲーム」と「シミュレータ」の違いも把握しておくこと。前者はゲームだが後者はゲームではない。 RTS リアルタイムストラテジーの略。ストラテジーゲームは普通はプレイヤーに考える時間が十分に与えられる。これをリアルタイムにしたものがRTSである。 TCG トレーディングカードゲームの略。MtG(=マジック・ザ・ギャザリング)に代表される、非常に多くの種類のカードを使って行うゲームである。カードの種類が非常に多いことと、ゲームではその一部しか使用されないことが特徴である。 RPG ロールプレイングゲームの略。これもまた乱用はなはだしい言葉である。もともとのロールプレイングゲームが何であるかは別稿に譲るとして、ここでは世間一般にRPGと呼ばれているなんだかよくわからないもの全体を表すことにする。 TRPG テーブルトークRPGの略。紙と鉛筆でやるRPG、といっても知らない人には何のことだかさっぱりわからないだろう。ここで簡単に説明できるようなものでもないから、他の文献を参照していただくということで勘弁願いたい。 最初は「ゲーム」という言葉の意味について話をしよう。これこそが今回の話の中心である。 まずは辞書に載っている文字通りの意味の「ゲーム」あるいは「game」について考えよう。辞書を引いてみると、現在我々が「ゲーム」と言われて連想するものよりはるかに広い意味を持っている。辞書を引いてみると、最初に出てくるのが「遊び」「冗談」、そして「競技」「勝負」、さらに「方針」「策略」と続く。 ゲームというのは楽しいものであり、一種の遊びであり冗談だ。本物ではない。しかしそれは勝ち負けを伴う競技である。そしてそれは方針や策略を必要とするものである。これがゲームの本質である。 ゲームというのは勝ち負けを楽しむものである。本物の戦いだったら負けは死や破産を意味するから、勝ち負けを楽しんでいる余裕などない。冗談だからこそ楽しむ余裕がある。これは「ゲームは真剣勝負ではない」という事ではない。ゲームは真剣勝負だ。しかしゲームだから負けても実生活には影響しない。世の中の雑事を頭から追い出して純粋に勝負に勝つためだけに方針や策略を練る。それがゲームだ。 これはスポーツにも共通する。スポーツもまたゲームだ。サッカーでは純粋にゴールにボールを蹴り込むことを楽しむ。そのために策略を練ることもあるし、うまくボールが操れるように練習することもある。このあたりはビデオゲームと全く一緒だ。 それに対して、100m競走はゲームとはあまり呼ばれない。策略が必要ないからだ。これらは自分の能力を出せるかどうかが勝負なのであって、相手との駆け引きは必要ない。100m競走は相手がなくてもできるし相手がいてもあまり変わらない。目的は「相手に勝つ」事ではなく「速く走る」事だからだ。 もちろん予選では力を残しておくといった策略が登場する事もある。しかし 100m競走の本質はそこではない。 それに対してゲームでは違う。相手の出方に対応しなければならない。あるいは相手より優位に立つように手段を考えなくてはならない。そしてそれは相手がいなくてはできない。陸上競技は良い記録を出そうと頑張るものであるのに対して、ゲームでは相手に勝つ事がすべてだ。 まとめよう。以下の要件を満たすものがゲームである。 相手が必要である。 相手との勝ち負けを争う。相手に勝つことが目的である。 単なる遊びであって、勝ったからといって何かいい事があるわけではない。 相手に勝つために方針や策略を考える。 「ゲームは相手が必要である」と書いた。しかしこう定義づけてしまうと世の中には対戦ゲームしかなくなってしまう。人間相手でないものはゲームとは言わないのだろうか? まず一つ、コンピュータは人間の代理であるという考え方はある。コンピュータ相手のチェスと人間相手のチェスに何ら変わりはないように、コンピュータはゲームの能力という点では人間と同等に扱っていい。しかし、こういったケースを除いても対戦ゲームではないゲームは多数存在する。 例えば、ドラクエではプレイヤーの相手は誰だろう?答えは「魔王」である。よく考えれば当たり前のことだ。そして魔王を操っているのはコンピュータだから、ドラクエではコンピュータ相手に戦っているのである。同様にSTGでは雨あられのように弾を降らせてくる敵機と戦っているのだし、スーパーマリオではカメ達と戦っているのだ。 逆に、相手が必要ない遊びとはどういうものだろうか。例えば登山やロッククライミングは「自然」と戦う。トライアスロンは「自分」と戦う。しかしこれらはゲームではない。相手は自分を負かそうとしていないからである。お互いが相手に勝とうと方針や策略を考えている状態が「ゲーム」なのである。 「自然」を相手と考えて登山をゲームに例えてみよう。登山者はAルートをとるかBルートをとるかどちらかを決める。Aルートは天気が良ければ早く登頂できるが、雪が降ると登れなくなる。Bルートは遠回りだが安全だ。登山者は「A ルート」「Bルート」と書かれたカードのどちらかを伏せてテーブルに置く。相手は「晴れ」「雪」のカードのどちらかを伏せて置く。そして同時に開けて結果を見るという場面を想像しよう。 登山の場合には、「自然」の出すカードは登山者とは無関係だ。相手の顔も見ずにさっさとカードを伏せてテーブルに出してしまい、登山者がその伏せられたカードをあれこれと推測するという形だ。ゲームの場合は違う。お互いが相手の顔色をうかがいながら自分のカードを決める。後者の方がはるかにいろいろと考えることがある。だからゲームは面白いのだ。 まとめよう。「ゲーム」には相手が必要である。相手も同じように自分を負かそうと考えなくてはいけない。現在、そのように「考える」ことができるものといえば人間とコンピュータくらいだろう。それ以外のものはゲームとは言わない。 だから、多くのビデオゲームはゲーム失格である。STGで敵は本当に自機をやっつけようと努力しているだろうか?スーパーマリオでカメ達は本当にマリオをやっつけようと努力しているだろうか?面白いゲームはこの問いに「イエス」と答えられる。 ゲームは「単なる遊びであって、勝ったからといって何かいい事があるわけではない」と書いた。これには補足説明が必要だろう。 ゲームに勝つ事に対して、ゲーム以外の要素が入ってくる事がよくある。良い例が賭け麻雀だ。麻雀に勝つとお金がもらえる。これはゲームを「単なる遊び」から「お金のやりとり」へ変えてしまう。これによって麻雀はゲームから賭けの道具へ変化してしまう。プロスポーツも同じだ。プロは勝つと年俸が上がり、負けると下がる。これによってゲームは単なる遊びではなくなってしまう。 ゲームが単なる遊びでなくなってしまうと楽しむ余裕がなくなってしまう。ゲームを楽しむ事ではなく勝つという結果自体に意味が出てきてしまうからだ。すると現実世界での様々な事柄がゲームの中に入り込んでしまう。イカサマや八百長などがそれだ。「イカサマはよくない」といくら言ってもイカサマを無くすことはできない。「イカサマして勝ってもなんの意味もない」と言えるようでないといけない。 トーナメント大会は境界例だろう。ゲーム大会ではよく優勝者は讃えられ、場合によっては賞品がつく。ここまではいい。しかし参加者が「讃えられたい」「賞品が欲しい」と思ってしまうとこれもまたゲームではなくなってしまい、賞品争奪戦になってしまう。 「単なる遊びである」というのはゲームであるための重要な条件である。これがないとプレイヤーはゲームを目的としてではなく手段として見てしまう。ゲームそのものを楽しむのではなく、賞品や栄誉を得るための手段に成り下がってしまう。ゲームは賞品を得るための苦行であって、ないに越したことはない。これではゲームの楽しみはなくなってしまう。 ゲームは「相手に勝つことが目的」と書いたが、これは同時に「相手に勝つこと以外は目的ではない」とも言える。賞品をもらう事や讃えられる事はゲームの目的ではない。だから、ネット上でトーナメント大会を開いたり賞品を出したりしてゲームを活性化しようとするのは、かえってゲームの面白さを損なう可能性もある。チートやイカサマプレイが横行するのは、プレイヤーがゲームの楽しさよりも賞品をもらう事や上位にランクインされる事を重視する結果である。つまりゲーム自体は面白くないということだ。 まとめよう。ゲームは単なる遊びだ。遊びである以上、遊んで楽しいという以外にやる理由があってはならない。トーナメントや大会を開くのは大いに結構だが、それに優勝する事だけを考えるのはもともとのゲームの楽しみ方から外れた行為である。もちろん、やるからにはゲームに勝ち抜いて優勝することを目指すのだが。 ゲームは相手に勝つことが目的である。勝ちの程度にこだわってはいけない。1-0で勝とうと10-0で勝とうと勝ちは勝ちだ。だから、プレイヤーは危険を犯して10-0を狙うより、確実に1-0で勝とうとする。それがゲームの正しい姿だ。 もちろん、大多数のゲームでは点数はたくさん取った方がよい。それは勝つ可能性を高める事につながる。野球、サッカー、麻雀などはそうだ。点を取れば取るほど勝ちやすく負けにくくなるから、野球では1点でも多く取る事を目指す。しかし、最終的には勝てばいいのだから、勝っている時には無理して満塁ホームランを狙わないでスクイズにする。 勝ちの程度にこだわると策略は必要なくなってしまう。野球で常にホームランだけを狙うのではゲームではなくバッティング競争になってしまう。こんな事だったら別にベースも守備も必要なく単にホームランを何本打ったかだけを数えていればいい。これは100m競走と通じるところがある。相手も策略も必要なくなり、とにかくがんばればいいだけになってしまう。 ゲームは得点を最大にすることを目指すものではなく勝つ確率を最大にすることを目指すものだ。得点を最大にするだけなら一番効率のよい事(例えばホームラン)だけを狙っていけばよく、その後は単なる確率勝負になってしまう。相手はいてもいなくても関係なくなってしまう。これはゲームではない。 相手を負かす事以外を考え出すと相手はいてもいなくても関係なくなってしまうのだ。ハンデ戦でも何でもいいからゲーム開始前に客観的な目的を決めなければならない。そしてその目的を達成する事だけを目指さないといけない。 ゲームというのは相手がいて、相手との勝ち負けを争うものである。そして純粋に勝負だけを楽しむ。他の要素は一切不要だ。これだけで十分楽しいものなのだ。 相手は人間ではなくコンピュータであってもいいが、お互いに敵を負かそうと策略を練らなければならない。何をやっても同じ反応しかしないのならばそれは相手がいないのと同じだ。これがバッティングセンターと野球の違いであり、パンチングボールとボクシングの違いである。 ゲームはゲームそのものを楽しむものであり、結果にこだわってはいけない。ゲーム中は勝つことだけを考えるが、勝負がついたらそれはもうどうでもいい。勝負にはこだわるべきだが結果にはこだわらない。この微妙な差を体得しないとゲームを楽しめなくなってしまう。 ゲームは勝つことだけを目的にすべきであり、それ以上のことにこだわってはいけない。それは相手を無視して自己満足にひたることになり、結果としてゲームを壊してしまう。 もちろん、ゲームに他の楽しむ要素をくっつけたものも世の中にはたくさんある。しかしゲームの楽しみというのは繊細なもので、余計な要素を付け加えるとかえってだめになってしまうこともある。ここでは純粋にゲームの楽しみについてだけ考える。 ゲームとは相手を負かそうとあれこれ考えることを楽しむものである。しかしただ考えるだけではない。今までに述べたゲームの特徴を踏まえるとゲーム独特の思考パターンが抽出できる。 ここではそうした「ゲームの思考パターン」について話をする。ここで述べる思考パターンこそが「ゲーム性」の本質であり、これを欠いたものはゲームではない。 ゲームの思考パターンの大前提が「最善手」という考え方である。つまり、数ある手の中で一番勝ちに近づく手を探し出すというものである。これは「勝つことが目的である」というゲームの原則から導き出されるものである。 最善手を考えるためには当然ながら前提が必要である。まず目的がわかっていないといけない。そしていくつかの可能な手がなくてはならず、それを自由に選べなくてはいけない。 この原則から、いくつかの遊びがゲームから分離できる。まずお絵描きや積木やなんとかシミュレータといった類いのものは目的がないからゲームではない。サイコロを振って前に進むだけの双六 念のため補足しておくが、ゲームではないと言っているのは「サイコロを振って前へ進むだけの双六」である。そうでない双六もある。 は選択ができないからゲームではないし、ビートマニアもタイミングよくボタンを押すという選択しかないからゲームではない スコアのためにあえてチップを無視したりタイミングを遅らせるというワザもある。しかし、ビートマニアの本質はあくまでタイミング良くボタンを押すことにあり、こうしたワザは本質ではない。ゲームでないものをわざわざゲームにする必要はない。繰り返しになるが、ゲームだからといって偉いわけではないし、ゲームでないからといってつまらないわけでもない。 。 「最善手を考える」という思考パターンがゲームの基本である。そしてそれには目的が必要であり、そこに近づくための「手」が必要である。そしてどんな手が良いかを考えるという行為がゲームにおける思考様式である。 ゲームと呼ぶには、最善手を考えるだけではまだ不足である。単に最善を考えるというだけなら「どの答えが正解だろうか」と考えるクイズもゲームになってしまうし、「このマスにはどの文字を埋めるのが最も良いだろうか」と考えるクロスワードパズルもゲームになってしまう。 パズルとゲームの違いは目的である。前者が解を求めるのを目的としているのに対し、後者は勝つことを目的にする。これは、ゲームの場合は絶対的な解答を求めるのが非常に困難で、ほとんどの場合不可能であることに起因する。 ゲームではプレイヤーは絶対的な最善手を出す必要はなく、勝つのに充分な手さえ求めればよい。しかしこれを「絶対的な最善手はない」と勘違いしてはならない。ゲームでは絶対的な解答はある。ただ人間がプレイ時間内に答えを出すのは不可能だというだけだ。後でまた述べるが、絶対的な最善手のないものはゲームではない。 パズル的思考でゲームにのぞむと、「下手の考え休むに似たり」という状態に陥りやすい。これはゲームなのに解を出そうとするからである。逆に、ルールが複雑でややこしいゲームは「頭が痛くなるゲーム」と称されて敬遠される こういうのを好んでやる人々もたくさんいるのだが。 。パズルの思考とゲームの思考は違うものであり、パズルと違って複雑で考えることが多いのが面白いのではない。ゲームの褒め言葉は「シンプルで奥が深い」というものである。考える事自体は少なくてよい。何を考えるかが問題なのである。 パズルは解を見つけたらそれで終わり、つまり問題が与えられたらそれに解答してそれで終わりなのに対し、ゲームはそうではない。自分の手が場に影響を与え、そしてまた次にその変化した状況に対して「どうしたらいいか?」と問題がやってくる。 これが一般に「読み」と言われるものだ。単に問題の解答を求めるものではなく、自分のとった手が世の中にどう影響するか、そしてその結果次にどんな問題に直面するかを考えることがゲームの要件である。ゲームはこれを繰り返すことによって進んでいく。 先程「パズルは解を見つけたらそれで終わり」と述べたが、これは厳密には正しくない。面白いパズルには読みの要素があり、自分の埋めた解答によって徐々に問題が解けていく。クロスワードパズルがよい例だ。ある一問に答えることによって、マスが埋まり、別の問題の答えがわかるようになる。これを繰り返すことによってクロスワードパズルを解いていく。 ゲームとパズルを分けるものは、読みの有無ではなく後戻りの有無である。パズルの場合、間違っていたら後戻りをすればよい。間違っていた個所を消して、また新たに始めればよい。ゲームではそうはいかない。一度手を決めたら変えることはできない。よく「人生にはゲームと違ってリセットボタンはないんだ」と言う人がいるが、リセットボタンがあるものはゲームではないのだ。 ゲームでは後戻りはできない。だからゲームではパズルにはない「確実性の評価」が必要になる。危い橋を渡るか、石橋を叩いて渡るか。将棋にも「寄せは俗手」という格言がある。ゲームはパズルと違って最善手を打つのが目的ではなく、勝つのが目的である。そして一番勝つ確率が多くなる手を考える。神様が考えれば正解はあるのだが、それは人間にはわからない。正解は「ある」のでも「ない」のでもない。これがゲームの面白さである。 ゲームとパズルを確実に分けるものが「敵がいるかどうか」である。ゲームには何人かの敵がいて、自分と同じように勝利を争っている。しかしただ争っているだけではない。自分のとった手が相手に影響し、相手のとった手もまた自分に影響する。 読みの基本は三手読みである。自分がとる手、それに対して相手がとるだろう手、それに対する対抗策と三手先を読み、その結果が勝ちに近付いていなければならない。三手読みは口で言うと簡単だが実行すのは案外難しい。ある手に対して相手の対抗手段はいくつかあり、そのすべてに対して三手目を考えないといけないからだ。考えることが格段に増える。複雑な初めてルールを覚えたゲームでは、三手どころか一手目の結果すら見通せていなかったりする。三手読みをバカにしてはいけない。 初心者は将棋を打つときにやたら王手や飛車取りの手を打ちたがる。これは一手しか見ていないからである。盤面だけ見ると、相手の飛車が取られそうになっていていかにも自分が有利に見える。しかし相手は当然飛車を逃がすわけで、そうなってみると実はかえって不利になっていたりする。初心者は、相手もまた自分と同じように考えて行動しているのだということを忘れがちだ。 つまり、ゲームでは自分の手が相手に影響し、相手の手がまた自分に影響する。これによって、ゲームは正解を探すという受身の行動ではなくなる。自分の手が状況を変えるのだ。 単に最善手を探すというだけではゲームの思考としては不足だ。人間には完璧な最善手を考え出すことはできないし、よっぽどのプレイヤーでない限り数手程度しか先は読めないのだから。「状況をただ分析して対処するだけではなく、自分から状況を作り出していく」これがゲームの面白さである。つまり、「勝てる手を見つける」のではなく、「勝てる手が見つけやすいように状況を変えていく」のである。その場で一番いい手ではなく、将来の状況を見据えた手を打つ。これが「戦略」である。 戦略という考え方を導入すると、「読み」も一通りではなくなる。今までは読みの目標は「最善手」だった。しかし「戦略」を導入すると最善手はどうでもよくなる。しょせん人間には最善手を考え出す能力はないのだ。その代わりに、勝てる手が見つけやすい状況にどうやったら持っていけるかを考える。 「勝てる手が見つけやすい」状況はまず「勝ちに近い」ということが第一条件になる。「どうやっても勝てる」というのが一番「勝てる手が見つけやすい」状況だからだ。それ以外の話になるとプレイヤーによって違ってくる。選択肢が少なくてわかりやすい方が見つけやすいかもしれないし、勝てる手がどこにもないという状況を避ける方が見つけやすいことにつながるかもしれない。「見つけやすい」は主観であり、プレイヤーがそれぞれ好きに考えることができる。 つまり、戦略とは、勝てる手を見つけやすくするために状況をどのように持っていくかを考えることである。これは計画の楽しさである。「どこへ旅行に行こうか」というのと同種の楽しさである。 ゲームでは相手が存在するため、自分の思ったようにゲームが運ぶわけではない。いくら計画をたててもゲームがその通りに進まなければ意味がないわけだ。そこで重要なのが主導権である。つまり、自分が思ったように事を進められるようにすることが重要になってくる。 主導権をとるということはつまり相手を攻撃する側に回ることである。「先手をとる」ともいわれる。先に攻撃すれば、相手はまず防御をしなくてはならない。攻撃側は自分の好きな場所を攻撃できるし、攻撃しないという選択もある。それに対して防御側は(もし守らないことが即負けにつながるのであれば)守らないという選択はない。相手が攻撃してくる場所を守らず、他の場所を守るという解も(ほとんどの場合)ない。攻撃側は好きなように行動を選べるのに対して、防御側は行動を自分の好きに選ぶことはできない。 主導権をとってゲームをするのは面白い。しかし気をつけなければならないのは、多くのゲームでは攻撃側が損をするように作られていることだ。主導権をとって面白く暴れ回ってみても、ふと気がつくと相手にはほとんど損害がなく自陣ばかりボロボロになっていたりする。 このあたりはフンタで大統領になってみればよくわかるだろう。 主導権をとることは「自分の思ったように事を運べる」というメリットがある。だからみな主導権をとりたがる。しかし主導権を維持することは難しい。そして、主導権をとりながら確実に勝ちへ向かうのはもっと難しい。主導権をとることが手段ではなく目的になってしまいがちだからである。ゲームは勝つことがすべてだ。「面白ければよい」ではいけない。だから、時には主導権を放棄しなくてはならない。それもまたゲームだ。 「戦略」で勝ちに向かう計画をたて、「主導権」をとってそこに向かうことができるようになったとしよう。ここでプレイヤーがよく陥る落し穴が「勝手読み」である。勝手読みとは、「相手はこう動くだろう」と相手の行動を勝手に決めつけることである。「自分がこう打つと相手はこう来るはず、それに対してはこう打てるから丸得だ」などと喜んでいると、相手が違う手を打ってきてひどい目にあったりする。「こう来るはず」が間違っていたのだ。 パズルのような逆算思考で考えると勝手読みに至りやすい。すなわち「ここに飛車を打ちたいのだが、今の状況では敵のあの駒が邪魔だ。ならばここに歩を打ってあの邪魔な駒を動かしてしまえばよい。」こう思いつくと、三手読みを実行しようとした時、「歩を打つ」という第一手に対して「邪魔な駒が動く」という第二手しか思いつかなくなってしまう。これが勝手読みである。「こうあってほしい」という将来の姿が存在してしまうので、どうしてもそこから離れられないのだ。逆算思考自体は悪くないのだが、それと三手読み自体はまったく切り離して考えなくてはならない。これがまた難しいからゲームというのは面白い。 勝手読みはプレイヤーのミスだが、それを意図的に行うのが「ハメ手」だ。ハメ手とは、相手が正しい応手を打たないと非常に有利になる手のことだ。そしてまた、相手が正しく応ずればかえって不利になる。不利になるかもしれないことを承知で打つのがハメ手である。ほとんどの場合、この「正しい応手」が非常にわかりにくかったり意外な手だったりする。 もちろんゲームである以上どんな手でも打っていいわけだが、ハメ手は相手をバカにした行為である。「相手はこのハメ手の応手を知らない」ということを前提にしているからだ。もし本当にそうだとして、ハメ手で勝ったとしてもそれは相手のレベルが低かったというだけだ。本当にうまいプレイヤーにはそんな手は通用しない。 ハメ手というといかにもインチキ臭いが、これに似た構図はゲームにはよく出てくる。「ここにおとりを置いて、相手がそれに引っかかっている間に本隊で相手陣地を攻略だ」などというのは、面白い戦略に見えるがハメ手である。相手がそれに引っかからなかった時のことを考えてないからである。良い戦略とは、相手がどう動こうとも自分に有利に働くような戦略である。 相手が自分の思い通りに動くのなら、相手がいる必要はない。相手が自分の思惑とは違った動きをするからこそ面白いのだ。相手の動きを勝手に決めつけて、その通りに動かなければ自分が負けるというのでは、それはゲームではなく単なる博打である。相手がどう動こうとも対応できるようにするのが「読み」であり、ゲームの面白さである。 単にプレイヤーに考えさせるだけでゲームになるのではない。ゲームの楽しみは微妙なもので、そこを外すと「確かに面白いがこれはゲームという感じはしない」というものになってしまう。ゲームの概念は一言で言い表すことはできない複雑なものだが、ここでなんとか言い表そうと努力してみた。微妙なニュアンスを感じとっていただけたら幸いである。 今の日本では、ゲーム機で再生するものはすべて「ゲーム」と呼ばれてしまっている PS2の出た頃、冗談で「一番売れたPS2のソフトはマトリックスだ」という話があったが、実はこれは核心をついていたのかもしれない。結局今出ているPS2 のソフトはここで言うゲームとはほど遠いものばかりで、映画に近いものばかりだ。 。だから「ゲームとは何か」と問われて明確に答えが返せないのだ。本来の「ゲーム」という言葉はもっと狭い意味の言葉である。 ここでは、一般にゲームと呼ばれているがここでいう狭い意味での「ゲーム」ではないものを挙げる。それによって「ゲーム」という概念をもっと明確にしよう。 「パズルゲーム」という言葉もあるが、厳密にはパズルとゲームは違うものだ。パズルには解があり、ゲームにはない。パズルの「解」は唯一絶対のものだが、ゲームにはそんな便利なものはない。絶対的な解がないからこそ面白いのだ。 ゲームもパズルも思考を楽しむものである。そして論理的な思考を要求される。しかしパズルは最初から最後まで論理的思考が要求される ここではパズル論をするつもりはないので割愛するが、最初から最後まで論理的思考で解けないものはパズルではなくなぞなぞである。なお論理的思考には試行錯誤も含まれる。 が、それに対してゲームではどこかに論理では割り切れない部分がある。不確実な情報があるからだ。敵の位置が見えなかったり、相手の出方がわからなかったりする。そうした不確実な情報を適切に推測して一番いいと思われる行動を決定する。それは論理的に導かれる最適解とは限らないし、それでいい。 不確実性だけがゲームとパズルを分けるものではない。不確実な情報を推測できることが重要である。「サイコロを2個振って出る目の合計を予想せよ」というのはゲームではない。これを「サイコロを2個振って出る目の合計として一番確率が高いのはどれか?」と読み替えればこれはパズルである。そしてそれ以上に考えることはできない。しかし「敵はどこに隠れているだろうか」という問題は少し様子が違う。「自分が敵だったらどこに隠れるだろう?」と考える。これには確実な答えはないがいろいろと推測はできる。これがゲームの思考とパズルの思考の差である。 実際にはビデオゲームでいう「パズル」という言葉も本来の意味で使われてはいない。例えばテトリスはパズルではない。唯一絶対の解を探すものではないからだ。マインスイーパーはある意味パズルだが、絶対に解けるとは限らない点で「できそこないのパズル」だ。 ゲームとパズルの違いとして、「不確実な情報を推測すること」と書いた。サイコロの目のような普通の不確実な情報は推測することはできない。しかし他人の考えは不確実だが推測することができる。だからゲームとは「相手の考えを推測すること」とも言える。相手の考えを推測するには、まず相手が何を目的に行動しようとしているのかがわかっていないといけない。 ビデオゲームの中には、「敵」=「ゲームプログラマー」であることも多い。結局のところ敵を動かすアルゴリズムを考えたのはプログラマーだから、敵の行動を推測するということは、プログラマーがどのように敵をプログラムしたかを推測することである。するとこう言える。敵の行動を推測するには、プログラマーが何を目的に敵をプログラムしたかがわかっていないといけない。 「敵」という言葉とは少しずれるが、この問題の典型例が「宝探し」である。 RPGでタンスの中などに隠れているアイテムを探す行為である。宝探しの場合、宝を隠す側はできるだけ見つかりにくい場所に宝を探す。そして探す側は「相手は見つかりにくい場所に隠したに違いない」と思って探す。これは相手の行動を推測することだ。 しかしコンピュータのRPGでは少々様子が違う。プレイヤーに見つからない場所に簡単に宝を隠すことができるからである。広大なマップの中のどこかの微妙な1ドットをつつかないと宝が発見できないようにすればよい。コンピュータRPGでの宝探しでは隠す側が圧倒的に有利な状況にある。それは隠す側が自由にルールを決められるからである。 だから隠す側としても本気で見つかりにくい場所に隠すことはできない。手加減をして、見つかりにくそうで見つかりやすい場所に隠すしかない。すると今度は見つける側が困ってしまう。見つかりにくそうな場所を探せばいいのか見つかりやすそうな場所を探せばいいのかがわからないからだ。相手がどのくらい手加減をしたのか、つまりは相手の行動目的がわからないのである。だから推測のしようがない。それで片っ端から調べていくしかなく、ゲームではなくなってしまう。 相手の目的を推測することはできない。なぜならそれは多種多様であって、推測するもとになる情報がないからだ。人は自分の目的をどんなものでも自由に設定できる。それでは困る。ゲームでは相手の目的がはっきりしていて、それは「勝つ」ことだ。そして手加減は一切しない。だからこそ相手の行動を推測することができる。 ゲームにおいてプレイヤーの「自由」はあってはいけない。プレイヤーは勝つために行動しなくてはならず、敵はプレイヤーを負かすために行動しなくてはならない。これはゲームの定義である。それが嫌ならゲームをやってはいけない。 話の流れとしては、これは相手の行動の推測に関わる事である。何を目的にしているかわからない相手の行動を推測することはできないからである。しかしこの問題は冷静に考えると至極当たり前な話で、常識的に考えて自由があっていいわけはない。サッカーで相手のゴールでも自分のゴールでも好きな方に蹴り込んでいいわけがない。必ず相手のゴールにボールを蹴り込むからこそサッカーは成り立つのである。 「ゲームの目的」も含めて「ゲーム」なのである。ゲームから目的を取ったものはゲームではなく、ゲームの道具に過ぎない。例えて言えばトランプのようなものだ。トランプ自体はゲームではなく、「七並べ」や「ポーカー」がゲームである。何も知らない子供にトランプを渡して「これで自由に遊びなさい」と言ったら、おそらくトランプで家をつくったりきれいな模様に並べて遊ぶだろう。それはそれで楽しいだろうがゲームではない。ゲームで重要なのは目的とルールであって、道具ではない。 ゲームでは「自由」はあってはならないが、「自由度」はなくてはならない。「自由」というのは目的を選べることで、「自由度」というのは手段を選べることだ。両者を混同してはならない。そして自由があるものはゲームではない。 ついでに言うと、相手に手加減をするのもここでいう原則に違反する。指導対局などいろいろな事情があるかもしれないが、原則論で言えば相手に手加減するのはプレイヤー失格である。 前にも書いたが、競争とゲームは違う。競争は相手がいなくてもできるが、ゲームは相手がいないとできない。カーレースでいうタイムトライアルとレースの違いである。 この違いは、相手への干渉があるかないかで決まる。ゲームの場合、自分のした行為は相手に影響を及ぼす。作戦を練るときは相手がどう動くかも考慮に入れないといけない。競争では相手がどうであろうと出せるスコアには影響がないから、自分のベストを尽くすことだけを考えればよい。 結論から言えば、競争はパズルである。与えられた条件からベストの解を引き出せばよい。もちろん不確実性があるから絶対唯一な解は見つからないかもしれないが、「これが一番確率が高い」という意味での解は見つかる。そしてそれを実行すればよい。 ゲームは競争と違って、「これが一番確率が高い」という解も見つからない。それは相手がいるからである。相手の行動のせいで状況は時々刻々と変わっていく。だから未来は見通せないし、絶対的な解もわからない。そんな中で、総合的に考慮して行動を決めないといけない。これがゲームの面白さである。 ビデオゲームの一大ジャンルに「現実の○○をシミュレートする」というものがある。「シミュレータ」と呼ばれているものである。○○に電車や飛行機や車を当てはめてもらうとわかりやすいだろう。これと従来からある「シミュレーションゲーム」という言葉は混同されがちであるからここで注記しておく。両者は全くの別物である。 一言で言えば、シミュレータは「現実を模擬したもの」であり、シミュレーションゲームは「現実の戦いを模擬したもの」である。「戦い」はゲームであるのに対して「現実」はゲームであるとは限らない。「シミュレート」という部分にゲーム性は関係ない。 戦闘機のシミュレータはゲームであり、旅客機のシミュレータはゲームではない。自動車レースはゲームであり、好き勝手にドライブできるものはゲームではない。シミュレータがゲームであるかどうかを語るには、それがシミュレートしている対象を見なくてはならない。究極のシミュレータは対象を完璧にシミュレートしているものである。その対象となっているものが面白ければ面白いが、面白くもなんともないものをどれだけがんばって完璧にシミュレートしてもやはり面白くない。 本来、「シミュレーションゲーム」という言葉はゲームジャンルではない。何をシミュレートするかによってゲームは大きく違うため、到底ひとくくりにできないからだ。「ときめきメモリアル」と「大戦略」と「電車でGo!」はどれも「シミュレーション」と呼ばれるが、それらに似たところはほとんどない。これほどあいまいな言葉が使われるわけは歴史的経緯にある。 もともとの「シミュレーションゲーム」の定義は「現実の戦争を忠実に再現するゲーム」だった。コンピュータのなかった昔の話である。現実を忠実にシミュレートするというのは大変骨の折れる作業だった。だからその時代に「サッカーのシミュレーションゲーム」がなかった 本当はいくつかあったのだが、数は圧倒的に少なかった。 のは当然である。そんな事をするより本当にサッカーをする方がずっと簡単で楽しかったからだ。シミュレートできたとしても紙の上であり、きれいな画面もアクションもなかった。現実には絶対にできないような事で、しかも非常に面白いことでないとわざわざシミュレートする気は起きなかった。 そんな時代に、現実にはできないけれど苦労してシミュレートする価値のある「ゲーム」が一つだけあった。戦争である。こればかりは個人で起こすことはできないから、個人で戦争を体験する唯一の手段としてのシミュレーションゲームが一大ジャンルとして発達した。そして何をシミュレートするかをは言わなくても「シミュレーションゲーム」と言うだけで戦争のことを指すようになった。 これがコンピュータの出現によって大きく変わった。シミュレートが簡単にできるようになったからだ。シミュレートの方が現実より容易にできるものから置き替えが始まった。普通の人にはまず運転できない飛行機に始まり、戦車や潜水艦のシミュレータが作られ、普通の人でもやろうと思えばできるスポーツや自動車の運転や果ては恋愛にまで広がった。 この過程でいつの間にか「ゲーム」の要素が抜けてしまった。それは机上とは違ってビデオゲームでは感覚に訴えることができるからである。「電車でGo!」は面白いが、これと同じものを全部ボード上でやることを考えてみてほしい。ひどくつまらないはずだ。きれいな景色が見られて音が出て電車に乗っている気分に浸れるから面白いのであって、そういった要素をすべて排除してしまって数字だけの存在にしてしまうと、電車の運転というのはたいして面白いものではない。 要するに、ビデオシミュレータはゲームでなくても面白いが、ボードシミュレーションはゲームでないとつまらなさすぎてやってられない。シミュレートして遊ぶ価値がある対象は戦争しかなかった。だから昔は「シミュレーションゲーム」という言葉がゲームジャンルを表すものとして通用した。今ではシミュレートして面白いものはいくらでもあるのだから、この言葉で一つのジャンルを表現することはできないし、シミュレートしているからといってゲームであるとも限らない。 「シミュレーションゲーム」という言葉は誤解を招きやすいので使わない方がいい。現実を模擬したものは「シミュレータ」と呼ぶべきだ。ここには「ゲーム」という言葉を入れてはいけないし、「シミュレータ」というのはゲームジャンルではないから「電車シミュレータ」のように何のシミュレータなのかを明確にしないといけない。そして戦争を模擬したゲームは「戦争シミュレーションゲーム」と呼ぶか、思い切って「ストラテジーゲーム」と呼ぶ方がいい。 なぜ「思い切って」なのかというと、昔の「シミュレーションゲーム」の概念は本当は「ストラテジーゲーム」ともまた違うからだ。しかし大戦略をときメモと混同されるよりは将棋と混同される方がまだましだ。 まったく違った遊びを一緒くたに「ゲーム」と呼んで分析するのは無意味である。野球中継とバラエティ番組とドラマを一緒にして「TV番組に共通する面白さは何だろうか?」とは考えないように、「パワフルプロ野球」と「マリオパーティー」と「Enter the Matrix」を一緒にしてこれらの面白さについて考えてはいけない。これらは全くの別物であり、「同じゲーム機で遊べる」という以外に共通点はないのだ。 よく「対人対戦ゲームはルールがシンプルでもとても面白い」という発言を聞く。それこそが本来のゲームであり、それ以外のものは実はゲームではなかったのだ。ゲームというのはシンプルでも奥が深く、同じゲームで長く楽しめるものなのである。 実際のところ、ここで言うゲームの要件を備えたビデオゲームは非常に数が少ない。ゲームの要件を端的に言えば「敵がワンパターンではなく、プレイヤーを出し抜くほど賢いこと」である。そしてコンピュータに「賢さ」を与えるのは一種の人工知能を開発することであり、非常に難しいことだ。だからビデオゲームに本物の「ゲーム」はほとんどない。 ここでは、ビデオゲームなどの中からゲームの枠組を抜き出してみよう。どこがゲームの部分でどこが飾りの部分なのかを見極めるためである。それがゲームとして面白いかどうかを見極めるには、まずどこからどこまでがゲームなのかを知ることである。 ゲームに範囲も何も存在しない、と思われる方もあるかもしれない。勝つためには考えつく限りのあらゆる手段を尽くさねばならない、と。これはある意味真であるから余計にやっかいだ。しかし例えば麻雀で積み込みや通しサインは許されるのだろうか?イカサマは発見されるリスクと成功した時の得を考えて選ぶべきなのだろうか?いや違う。イカサマはゲームの範囲外にあり、ゲームではしてはいけない事なのだ。 これは倫理的な観点ではない。ルールにない事はしてはいけないというだけだ。麻雀でハウスルールにもし「イカサマOK」と書いてあれば、華麗なイカサマ技を駆使して勝つべきである。ゲーム内でそれをしていいかどうかは唯一「ルールにあるかどうか」だけで決まり、それ以外の観点で決めるべきではない。 この問題は家庭用ビデオゲームで顕著だ。多くのゲームでは「ゲームスタート」のかけ声の一つもなく、ソフトを立ち上げた時からゲームの世界にどっぷり浸かれるようにできている。明文化されたルールもない。だから考える時には意図的に切り分けをしないといけない。 ゲームを分析する上でまず切り出してもらいたいのが、いつがゲームの開始なのかである。ゲームクリエイター達がゲームと呼んでいるものと本物のゲームとはまた違うものであって、この境目をつけるのはなかなか難しい。 例えば、多くのゲームには難易度設定がついている。では、難易度をEASYにするのはゲームの一部だろうか?もしゲームの一部であるとすれば、ゲームとはできるだけ確実に相手を倒すものなのだから、EASYにして勝つ確率を上げる「べき」である。もし難易度設定はゲームの範囲外にあるとすれば、自分の好きな難易度にして遊べばよい。 難易度設定は多くの人が「それはゲームの一部ではない」と言うだろう。ではアクションゲームでたまにある、何回か死ぬと敵の攻撃が緩やかになるというフィーチャはどうだろう?これを「ゲームの一部」として積極的に使っていいのだろうか?それともこれはあくまで救済措置であり、積極的に使ってはいけないのだろうか? これはその人個人の問題ではない。ゲームの根幹に関わる問題である。なぜなら初期条件というのはルールの一部だからだ。これを「どこからをゲームと呼ぼうが個人の自由」と言ってしまうのは、プレイヤーにサイコロだけを渡して「どう遊ぼうが個人の自由」と言うのと同じだ。これは無責任な行為であり、自分の意図していない遊び方をされて「こんなゲームはつまらない」と言われてしまっても仕方がない。 逆に自分の意図していない遊び方をされて「面白い」と言われることもあるが、これはゲームデザイナーにとっては屈辱であることを認識すべきだ。へらへら笑っている場合ではない。 まとめよう。ゲームをデザインする場合にはまずどこからがゲームなのかをはっきりとさせるべきである。ゲーム開始前はプレイヤーは自分の好みの行動をとってもよいが、ゲームが始まったらプレイヤーは自分勝手な行動をとってはいけない。必ず勝ちに向かって行動しなくてはならない。 「どこからがゲームなのか」を見極めたら、次に「どこまでがゲームなのか」を見極めないといけない。この両方を決めることで始めてゲームの範囲が決定される。終了条件というのは、どうなったらゲームはプレイヤーの勝ち(あるいは負け)なのかを明確にすることだ。 終了条件とはすなわちゲームの目的である。ゲームは勝利を目指すものであるが、どうなったら勝利と呼べるのかを定義したものである。だから終了条件がなくてはゲームは成り立たない。例えば、悪の大魔王を倒してもまだ延々とレベル上げできる多くのRPGは、ゲームである事を自分から放棄している。 中には「負けないこと」が勝利条件になっているゲームもある。昔のゲームの多くはそうだ。例えばテトリスでは際限なくブロックが降ってきて、上まで積み上がらない限りいくらでもゲームを続けることができる。このようなゲームでは勝つことは不可能だから、ゲームとしては少し問題がある。しかし「勝つ」ことはできなくても「勝ちを目指す」ことはできるから、まだゲームとしては成立する。 パックマンやインベーダーゲームはまた違う。これは「面」で区切られているからだ。面の始まりがゲームの開始であり、面クリアかゲームオーバーが終了条件である。そして面クリアしたら次のゲームが始まる。このように、ゲームの終わりとビデオゲームの終わりが一致しないこともある。 あるいは、ゲームが入れ子になっている時もある。例えばRPGでは、魔王を倒すという大きなゲームと、個々の戦闘という小さなゲームがある。戦闘は完全に一区切りのゲームになっているが、前回の戦闘によって初期条件や終了条件が微妙に違う。そして、何を目指すかはプレイヤーが「大きなゲーム」の戦略に従って決定する。 ゲームオーバーになっても、ゲームの途中からまた再開できるシステムが「コンティニュー」である。家庭用ゲームではこれが何回でもできる事が多い。このシステムの問題点は、プレイヤーの勝負がはっきりしない点である。 ゲームオーバーになった時にまた最初からではなく途中から再開するのはなぜだろう。もしそのゲームが本当に面白いのなら、途中を飛ばさずにまた最初からやりたいと思うに違いない。そこまでの道のりが長く単調でつまらないから、それをすっ飛ばして途中からやりたいと思うのだ。コンティニューするということは、そこまでのゲームとしての楽しみを否定することである。 アクションゲームや一部のSTGでは、コンティニューすると面の最初に戻される。この場合、「面」がゲームの単位だ。一つの面をクリアするまでが一つのゲームであり、クリアできたらそれは勝ちである。そして次の面ではまた次のゲームが始まる。このようなシステムであればこれはゲームとして通用する。 しかし、こういうシステムにするなら、面の始まりは常に同じ状態になっていなくてはならない。「ゲーム」の単位が「面」だからだ。どれだけパワーアップアイテムを持っていても面の始まる時にクリアされるか、逆に面の頭で簡単にパワーアップできるようでなくてはならない。同じ条件で始まるから勝負を競えるのであって、始めからハンディがついているのでは何を競っているのかわからなくなる。 「復活がアツい」といわれるSTGがいくつかあった。「復活」とは、いったん死んでパワーアップのない状態で面の最初に戻されることである。(パワーアップがないから)難易度の高い面に同じ条件でチャレンジできる面白さである。 もう一つ、コンティニューを繰り返すことで有利になってはならない。これも同様に何を競っているのかわからなくなる。コンティニューをしてゲームが簡単になるのならば、「より確実にクリアできる方法を探す」というゲームの鉄則からすると「コンティニューをした方がよい」という結論になってしまう。これはコンティニューの主旨からしておかしい。もともとコンティニューというのはゲームに負けた時に復活するものだ。「ゲームに勝つにはゲームに負けた方がいい」という意味不明な結論になってしまう。 まとめよう。コンティニューというのはプレイヤーにとってもう面白味のなくなった簡単な面をスキップするためのもので、スキップした事によってゲームが難しくなっても簡単になってもいけない。ゲームオーバーになったら必ず面の始めに戻されなくてはいけない。 これらの条件を満たすものはもはやコンティニューではなく面セレクト機能である。よって結論。コンティニューではなく面セレクトにしろ。そちらの方がプレイヤーにとって便利だ。 ゲームが終了したら、プレイヤーの勝ちであるか負けであるかが判定されなければならない。しかもそれは優劣があるものでなくてはならない。「どのエンディングにたどりついてもよい」というのではゲームにはならない。必ず「勝ち」が「負け」より良い評価でなくてはならず、それはただ一種類でなくてはならない これは条件が一つでなくてはならないというわけではない。もし勝つ条件が「詩織か沙希か夕子に告白されること」なら一つの条件だ。「詩織エンディングを目指していたけど夕子だった。まあこれでもいいか」というのはよくない。これはゲームに負けたということである。 。ゲームは勝つために考えるものなのだから。 そして、その評価基準は客観的に決められていないといけない。ゲームの目標はルールの一部であり、プレイヤーが自分で決めてはいけないものである。ゲームは「勝ち」を目指すものなのに、その「勝ち」の定義を途中で勝手に変えていいわけはない。どういう状態が「勝ち」なのかはゲームの前に決めなくてはならない。逆に言えば、それが決まってない間はまだゲームではない。 中には勝利に複数の段階を設けているものがある。「大勝利」「勝利」「僅差の勝利」などである。このようになっているとプレイヤーは非常に困る。既に「勝利」の条件は満たしているがまだ「大勝利」の条件を満たしていない時に、果たしてどうすべきだろう?ゲームは安全確実に「勝利」を目指すものであるから今すぐ「勝利」を宣言すべきだろうか。それともあくまで「大勝利」に向かうべきだろうか。プレイヤーに行動の指針が示されていないと、プレイヤーはどうしていいかわからない。だからもし段階を設けるにしても「プレイヤーは大勝利を目指すべきである」と一言書いておくべきだ。この場合、普通は大勝利以外は勝利とは呼ばれない。勝利というのは目指すべきものが達成された状態のことだからだ。 評価は連続ではなく、必ず段階がなくてはいけない。これはなぜ複数の評価が設けられるのかを考えれば理解できる。本来、ゲームには「勝ち」と「それ以外」しか存在しない。そして「勝ち」を目指す。しかしこうすると、勝つ見込みがなくなってしまった時に困る。二人用ゲームならその時は投了すればいいわけだが、プレイヤーが一方的に抜けることができないゲームもある。「勝ちを目指せ」と言われてもそれが不可能な時はどうすればいいのだろう?そんな時、評価が複数あると便利である。「勝ち」は目指せなくともその次の段階 (例えば「2位」)を目指すようにできる。目標を段階的に下げていくことで、例え勝つ見込みがなくなってもまだゲームを続行させることができる。 だから、評価は連続ではいけない。勝つ見込みがなくなってしまった時、「次はこれだ」と一意に決定できるものでなくてはならない。でないと、プレイヤーは次の目標をどこに設定していいかわからない。ゲームの目標というものはプレイヤーが勝手に決められるものではないから、結果としてゲームを進められなくなってしまう。あるいは進められたとしてもそれはもはやゲームではなくなっている。 ゲームを作る時には、ゲームの範囲を厳密に定めて、何をしようかとプレイヤーが悩まないようにしなくてはならない。ゲームというのは明確な目標に向かって、いかに確実に到達するかを考えるものだ。だから目標が明確になっていなくてはいけない。「勝利」が明確に定義されていないものはゲームではない。 プレイヤーは目標に確実に到達するためには許されるどんな手を使ってもよい。それだけではなく、どんな手でも使わないといけない。勝てる方法があるのにそれをわざとしないというのは、ゲームの大原則である「勝利を目指す」という事に違反することであり、ゲームに対する冒涜だ。だからこそどこまでが許される手なのかをはっきりさせないといけない。 どこからどこまでがゲームなのかを決めることによって、プレイヤーはゲームの間迷わず全力で戦う事ができる。 ゲームとは勝ちを目指して行動する遊びである。あるいは正確には「行動を選択する」と言うべきか。次は「行動」について考えよう。 ゲームというものは形式化すると次の繰り返しである。 ゲーム全体がある「局面」にある。ゲームの開始直後の状態は「初期局面」と呼ばれる。 プレイヤーは、終了条件が満たされた時に自分の評価が一番良いもの(=勝利) になるように何らかの「行動」をする。 「行動」によってゲームの「局面」が「変化」する。 変化後の局面が「終了条件」を満たしていればゲームはそこで終わる。そうでなければ1.に戻る 「初期状態」「終了条件」「局面」「行動」「状態変化」がゲームのすべてである。初期状態と終了条件については前章で考えてきたので、ここではそれ以外について述べよう。 局面について述べることは多くない。ある瞬間におけるゲームの全情報が「局面」である。敵がどこにいてどっちの方向を向いているか、HPはあとどのくらいか、自機のエネルギーはあとどのくらい残っているか、あるいはサイコロの出た目がいくつか、などなど。 ルールと局面の区別は重要である。局面はゲームが進むごとに刻々と変わるが、ルールは一定である。ルールについて詳しくは後述するが、状態がどのように変化するかを記したものである。そしてルールと現在の局面によって変化後の局面が決まる。例えばTCGで、「死の霧:このカードが場に出ていると、すべてのクリーチャは毎ターン1ダメージを被る」と書かれたカードが場に出されているとする。この場合、局面というのは「死の霧というカードが場に出ている」ということであり、そのカードに書かれた文面はルールである。「死の霧」が場に出ていることと、「死の霧」の効果が「すべてのクリーチャは毎ターン 1ダメージを被る」という2つのことによってクリーチャは1ダメージを被る。しかしルールは不変であり、それに対してカードが場に出ているかどうかはその時々によって違う。 局面はプレイヤーから一部隠されていることもある。場に伏せて置かれたカードはわからないし、サイコロを振った時に出る目もわからない。局面を隠すことはゲームにとって大きな意味がある。それについては後で述べることにする。 現在の状態を把握して、プレイヤーは局面を自分の有利な方向に持っていこうとする。それが行動である。前章で書いたように、プレイヤーの行動はゲームのルールによって制限される。ゲームの範囲内の行動と、範囲外の行動(例えばイカサマ)が定義される。ゲームをプレイするという事は、ある範囲内の行動の中から最終的に勝利につながる確率が一番高いものを選び出す作業の事である。 だから、プレイヤーにとってゲームの本質は「行動すること」そのものではなく「行動を選び出すこと」にある。例えば、人生ゲームで最初にルーレットを回すという行動はゲームではない。誰でも必ずするからだ。止まったマスの指示に従う事もゲームではない。選択の余地がなく強制的にさせられるからだ。分かれ道でどちらを進むかを決めること、あるいは止まったマスの指示が「○ ○してもよい」と書いてあったらそれをするかしないかを決めることがゲームをプレイするということだ。 行動を選ぶのは気まぐれではいけない。最終的に勝利につながる確率が一番高いものだと思う行動しか選んではいけない。そのためには、それぞれの行動をとった時に勝利につながる確率を考えないといけない。この、「考える」という行為こそがゲームである。 まとめよう。ゲームではプレイヤーは「行動」をする。それは表面的にはコマを動かすことだったりサイコロを振ることだったりする。しかしゲームの本質はそこにはない。可能なすべての手について、それをした時の将来勝つ確率を予想すること、そしてその結果を比較してどれが一番良いかを決めることこそがゲームの本質である。 プレイヤーの行動によって、ゲームの局面が変化する。どういう行動でどう変化するのかを決めるのが「ルール」と呼ばれているものである。 ルールはゲーム全体を通じて普遍なものである。ルールそのものが変わるゲームもあるが、それは「ルールが変わる」事自体がルールだと思えばよい。TCG の例を前に出したが、TCGではカードにルールが書いてあるせいで「カードによってルールが変わる」と見られてしまいがちである。実際はそうではない。すべてのカードとそこに書いてあるルールの集合が「ゲームのルール」である。だから、例えば「TCGのルールを覚える」というのはターンの進め方やクリーチャの出し方を覚える事だけではない。世の中に出ているすべてのカードの種類とそこに書いてあるルールを覚える事が「ルールを覚える」という事である。 TCGを(ゲームとして)遊ぶ場合にはルールを覚えなくてはならない。つまりすべてのカードの種類とそのルールを覚えないといけない。なぜなら、どんなカードがあるのかがわからなければ作戦の立てようがないからだ。もし「ライトニングボルト: 対象クリーチャに3ダメージ」というカードを持っていたとしても、もしかしたら自分の持っていないほとんどのクリーチャはHPが100くらいあるのかもしれないし、ほとんどのクリーチャのHPは1か2しかないのかもしれない。とすると、ライトニングボルトというカードにどのくらいの価値があるのか判断のしようがない。 ルールというのはプレイヤーが行動を選択する基礎である。自分がどう行動するとルールによって局面がどう変化するか予想できるから、その中でどれが一番良いかを考える。ルールはゲームを通じて不変でなくてはならない。 ゲームとは、ゲーム全体の「局面」が「勝利」という評価になるように「行動」をすることである。あるいはもっと正確に言えば「行動を決めること」である。「行動を決めること」こそがゲームの本質である。 行動を決めるためには、行動によって局面がどう変化するかを知っていなくてはならない。それが「ルール」である。ゲームのルールは途中で勝手に変わってしまうことはなく、常に一定でなければならない。 前章でも少し言及したが、ここではゲームにおける「隠された情報」について話をする。相手の手の内にあるカード、ダイスを振った時に出る目、テーブルに伏せて置いてあるカード、などなどのことである。 ボードゲーム、もっと言えばボード海戦シミュレーションゲームでは「情報を隠す」事は悲願だった。それは単なる物理的な制約である。もともと海戦というのは索敵の戦いであり、敵の位置をいかに早く知るかが勝負である。しかしプレイヤー同士でテーブルを囲んで戦艦のコマをボード上に置くと、本来わからないはずの敵の位置が丸見えになってしまう。これはボードゲームである以上いかんともしがたい欠点であり、いろいろと解決方法は考案されてきたものの決定打はなかった。 この問題を解決したのがコンピュータである。コンピュータを使ってお互いが自分のディスプレイしか見ないようにすれば、敵の位置を簡単に隠すことができる。これは素晴らしい進歩だ。おそらくボードタイプのシミュレーションゲームが衰退したのもここに原因があるのだろう。ボードでやるという制約のせいで、ボードゲームはコンピュータゲームにシミュレーション性で負ける。 コンピュータが出現したおかげで、ゲーマーの夢である、より現実に近いゲームを実現できるようになった。「テーブル上で実現する」という制約がなくなったからだ。プレイヤーに見えない情報は自由に隠すことができるようになったし、コンピュータの処理能力のおかげでパラメータもどんどん増やすことができた。どんな面倒なルールでもコンピュータにやらせれば問題ない。そういうわけで、ゲームの規模はどんどん肥大化していった。 ゲームの規模が大きくなるにつれて、プレイヤーが状態を把握するのさえ一苦労になった。何百とあるコマの一つ一つにいくつものパラメータが存在し、それがプレイヤーに把握しきれなくなった。そこで表示を簡略化することが考えられた。あまり見えなくていいパラメータは表示を省き、画面に表示されるデータの洪水にプレイヤーが圧倒されないようにした。これは同時にゲームを大衆化するのにも役に立った。今までは膨大なデータに圧倒されないような変人にしかゲームができなかったのが、誰にでもゲームができるようになったからである。 そして今に至る。ゲームの大規模化によって様々な所に歪みが出始めている。ゲームがプレイヤーに把握できない所まで大きくなり、それをコンピュータの力で無理やり小さくして見せているからだ。結果として何をやっているのかわからなくなってしまう。 実際には、プレイヤーが把握できるだけの情報に、ちょっとだけ隠された情報があればゲームは十分面白くなる。しばらくこの問題について見ていこう。 ゲームにとって情報隠蔽は必須事項ではない。それは囲碁や将棋を見れば明らかだ。すべての情報が見えていても十分ゲームとして成立する。これを「完全情報ゲーム」と呼ぶ。 ただし理想論ではこうはいかない。細かい言及は避けるが、囲碁や将棋、チェスやオセロなどの「完全情報ゼロ和ゲーム 「ゼロ和」というのは、自分と相手の利益が相反するということである。つまり相手が勝ったら自分は負けであるということだ。多くのゲームがそうである。 」では、「先手必勝」「後手必勝」「引き分け これは「引き分け」がゲームのルールに定義されている場合に限る。 」「無限に終わらない」のどちらかである。三目並べを考えてもらえばわかるだろう。極限までに優秀な二人のプレイヤーがいれば三目並べは必ず引き分けに終わる。相手の手がどうであっても、それにどう対応すれば負けないかがわかっているからである。同様に、囲碁も将棋もプレイヤーが極限までに優秀であってすべての可能な手を読み切ることができれば、結果としてゲームを始める前に結果がわかってしまう。それはもうゲームではない。 もちろん実際にはそんな事は不可能だから、囲碁や将棋はゲームとして立派に成り立っている。しかしゲーム性を揺るがす微妙な問題が一つある。一人で遊べてしまうという問題である。 対局後に、今の対局のどの手が良かったか悪かったか、あの時どう打っていればどうなったかを検討する「局後検討」は上達のためには非常に良い事だ。しかし、対局での自分の手番でやる事と局後検討でやる事は実質的に違いはない。つまり、局後検討に相手が必要ないのであれば、本番の対局でも相手は必要ない事になってしまう。 例えば一人将棋を考えてみてほしい。まず自分が先手となり、勝つつもりで一手進める。次は自分が後手になったつもりで、後手に勝たせるように一手進める。これを繰り返すのである。「先手になったつもり」「後手になったつもり」の気持ちの切替さえできれば、この一人将棋と二人でやる普通の将棋とで本質的な違いはない。これは「相手が必要である」というゲームの原則と矛盾する。 完全情報ゲームは、理想論を言えばゲームの定義から外れてしまう。非常に難しいが答えがある問題であり、壮大なパズルだ。しかし現実的にはこのような問題を解くことはできない。そしてその事によってのみゲームとして成り立つ。 次に、完全情報ゲームとは対極にあるもの、無情報ゲームについて考えよう。無情報ゲームとは行動の判断に何の情報もないゲームである。実際にはこれはゲームとして成立しないから、こんな言葉はない。無情報ゲームの代表はジャンケンやサイコロの数当てなどである。 ジャンケンは相手に勝つ手を考えるゲームだ。相手がグーを出しそうならチョキを出せばよい。簡単なことだ。問題は相手がどの手を出すつもりなのかがわからないことだ。「相手が出す手がわからない」というのは多くのゲームで共通する事であるが、ジャンケンが特殊なのはそれを判断する情報すらないということである。 情報がないとそれぞれの手の価値判断ができない。どの手を出しても特に有利ということはないから、3つの手から適当に出すしかない。そしてジャンケンにおいてはそれが負けないための最良の戦略だ。自分が「適当戦略」を使っている事がバレても、そしてそれに対抗しようと相手がどんなに考えていても、結果は確率的な五分五分以上のものにはできない。そして情報がないためにどんなに考えてもそれより分のいい戦略は考えつかない。結果として、ジャンケンは考える事なく適当に手を出してその結果が勝ったか負けたかを見るだけのものになってしまう。 結論。プレイヤーに情報がなさすぎるとゲームにならない。 ゲームにおいて情報とはプレイヤーが未来を予測するためのものである。行動 Aをとったら局面がどう変化するか、行動Bをとったらどうなるかを考え、それに対して相手がどう反応するかを考え……と「読み」を続けていき、最終的に一番良いと思った行動を実行する。これがゲームだ。 しかし、これが完全に読み切れてしまうとゲームではなくなってしまう。相手が必要なくなってしまうからだ。相手がどんな手を打ってきても必ず勝つという局面になった時点で、相手が投了してゲームは終了する。 「自分の選んだ行動によって局面を自分の有利な方向に持っていくことができる」というのがゲームの面白さの源泉である。だからこそそうなるように一生懸命に行動を考える。逆にどうやっても勝てる状態、あるいはどうやっても勝てない状態になってしまうと興味は薄れてしまう。勝負はそこでついたことにしてゲームは終了させるべきだ。 ゲームでは予測可能性、つまり自分の選んだ行動によって局面がどう変わるのかが事前にわかることが重要である。しかし勝利までの道筋がすべてわかってしまうとゲームはそこで終わってしまう。わかった道筋をたどればいいのであり、あれこれ考えることがなくなってしまうからだ。予測は可能であるがそれが完璧ではないからこそゲームが成立する。 予測可能性から容易に導ける結論が一つある。ゲームのルールを隠してはいけないということだ。どんなルールに従って局面が変化しているのかがわからなければ作戦を立てることはできない。だからプレイヤーにはすべてのルールを知らせなければならない。 これは現実を正確にシミュレートしたコンピュータゲームで顕著だ。こうしたゲームではあまりにもルールが多すぎ、プレイヤーがすべてを把握することはできない。しかしプレイヤーはルールを把握しないことには作戦を立てることができない。結論として、現実を再現する事に重きを置くシミュレータではゲーム性はどうしても落ちることになってしまう。 例えばレースゲームで、気温によってタイヤの固さが変わってコーナーリング性能が違ってくるようなルールがあったとしよう。よっぽど劇的に変化しない限り、プレイヤーがそれを知らなければそのルールは気づかれないままだ。そのせいでコーナーリングに失敗しても、プレイヤーはきっと「ちょっとブレーキタイミングが遅かったかな」としか思わないだろう。つまりプレイヤーから見たらあってもなくても変わらないことになる。 「気温によってタイヤの固さが変わるのは現実にもあるのだから、それに気づかない方が悪い」という意見もあるかもしれない。しかしそれでは不十分である。シミュレータは現実をすべて忠実に再現できているものではないからだ。プレイヤーはそれが「気温が車の走りに影響する」事だけではなく、「その事がゲーム内においても忠実に再現されている」事も知っていないとその結論は出せないわけだ。でないと「もしかして連戦のためにドライバーの体力が減っていることが影響しているのだろうか」とか「もしかしてレースの時期によって使用するタイヤの製造工場が違っていたりするのだろうか」と的外れな事を考えてしまう。ゲームデザイナーがどの要素をどうアレンジしてそのゲームに取り入れたのかを結論づけることはできないから、結局「よくわからないから無視しよう」と結論付けられてしまう。 プレイヤーが知らないルールはあっても意味がない。ゲームとはプレイヤーが考える事であり、ルールはその根拠だからだ。ルールはプレイヤーが考慮に入れるためにある。ルールがわからないと何が起こるかわからない。そんなゲームで真面目に先の展開を読むことはできない。最低でも隠しパラメータにすべきだ。そうすればプレイヤーは少なくとも何が起こるのかはわかし、ルールに書いていない事は起こらないという確証を持てる。 乱数はゲームにおいて非常にしばしば使われる情報隠蔽の手段である。「サイコロを振る」と決めた時には、サイコロで出る目はわからない。「カードを引く」と決めた時には、何のカードが引けるかわからない。先に「予測可能性がないといけない」と言ったが、これは「乱数はよくない」ということだろうか?結論から言うと、乱数は適度に予測でき、適度に不確定要素がある。どのくらいそれを活用するかがゲームデザイナーの腕である。 適度に予測可能な乱数を作る一つの方法は、大数の法則を利用することである。サイコロをたくさん振ってその合計を乱数として使えば、それは平均値に近くなる。それを何回も繰り返せば出現回数はだんだん平均値に近くなる。これが大数の法則である。 これをうまく利用したのがボードゲーム「カタンの開拓」である。 もう一つの方法がカードを使う方法である。カードの場合、山から一枚ずつ引いていけば必ずそれぞれのカードが1枚ずつ引かれる。カードで特徴的なのは配られた手を見ることによって見えないカードもある程度予測できることだ。トランプを4人に均等に配ったとき、自分にハートが多ければ相手には少ないと予測できる。あるいはゲームが進んでキングが3枚捨てられたらもうあと一枚しかないと判断できる。サイコロとは違って過去の履歴を覚えておく必要があるから難しくはなるが、その分面白いゲームになる。 コンピュータゲームに乱数を使う時は注意しなくてはならない。ボードゲームとは違って使える乱数の種類に制限がないから、予測不可能な乱数をゲームで使ってしまいがちになってしまう。単にサイコロを1つ振ったに等しいような単純な乱数一つで重要な判定をしてはいけない。 次はゲームにおけるシナリオについて考えよう。これもプレイヤーが知らない情報である。しかし、そもそも「シナリオ」とは何だろうか。もしそれが今まで述べた「局面」「行動」「ルール」のいずれでもないなら、それはゲームではない。例えば、ゲーム中に街の人の一人に話しかけると、そいつが何やら台詞を言ってアイテムをくれるとしよう。これは上記のどれにあたると解釈すべきだろうか。 以前挙げたTCGの例から類推して解釈してみよう。ここでいう「街の人」というのは裏返しになったカードである。プレイヤーはそれに向かって「話す」という行動をした。カードをめくって書いてある指示を読むと「街の人:話しかけると薬草をくれる」と書いてある。その指示に従って薬草をもらう。 ここに以前述べたことを当てはめてみると、「街の人:話しかけると薬草をくれる」というカードの指示はルールである。そして、そのカードがどこにあるかは局面である。たくさんカードが裏返しになっている中でどのカードがそれかというのも局面である。つまり、シナリオというのは局面とルールの混じったものである。それに対して今まで述べた事を適用しよう。ルールは隠してはいけない。街の人に話しかけた時の反応はすべてルールであり、プレイヤーが知っていなくてはならない。プレイヤーが知らない情報というのはその中からどの反応が出るかである。そしてそれもある程度の予測性がないといけない。 と考えると、ほとんどのゲームのシナリオはゲーム失格である。台詞やイベントの中身は事前に知らされていなければならないと言っているのだから。結論として、シナリオはゲームの一部と考えるべきではない。 結局、シナリオというのはゲームとゲームの間の寸劇としてとらえるべきだ。あってもなくてもゲームそのものには関係なく、ゲームに彩を添える役割である。シナリオにいくら選択肢があろうとそれはゲームではなく、次にどのゲームをやりたいかを選ぶ意味でしかない。ゲームとして見れば、スーパーマリオで面クリア時に花火がドドンと上がるのと同じくらいの重要性でしかない。 今までの規則にことごとく違反したゲームジャンルが一つある。テーブルトークRPGだ。TRPGの特徴は、ルールをプレイヤーが把握する必要がない事だ。 TRPGでは、極端に言えば仮想世界の世界法則がすべてルールだ。プレイヤーが取れる行動にも制限がなく、仮想世界上で可能なことならどんな行動でもできる。普通のゲームではこれは不可能だ。ゲームではルールで許される行動しか取れないし、ルールというのは事前に決まっている有限のものだから、結果として普通のゲームでは事前に決まった有限の行動の中からどれかを選ぶことしかできない。そういう意味で、TRPGはより行動の選択肢が広がったという面白さがある。 前に「ルールは隠してはいけない」と言った。ルールは事前に決まっていて、プレイヤーがそれをすべて把握していないといけない。TRPGは一見この原則に矛盾するように見えるが、実はそうではない。TRPGではルールとは仮想世界の世界法則すべてである。それが無限にあって語りつくせないだけだ。前にレースゲームの例で、「現実のうちのどの要素が実際に取り入れられているかわからないのが問題だ」と言った。TRPGではこの問題は起きない。現実のすべての要素が取り入れられているからだ。 これを可能にするTRPG独特の機構が「ゲームマスター」である。彼はルールの生き字引である。プレイヤーは彼にルールを聞けば何でも教えてくれる。だからプレイヤーは無限にあるルールをすべて覚えるという(不可能な)苦労をする必要はなく、ルールは必要に応じて聞けばいい。そのルールがルールブックになければゲームマスターは自分の裁量で新たに作成する。ルールが必要に応じて作られるから、ルールが無限にあっても機能する。そしてプレイヤーはルールを聞いた上で戦術を考えればよいのである。 現実とルールが食い違った場合、TRPGでは現実の方が正しいとされる。ゲームマスターはルールが現実に合うように適切にルールを補ったり修正を加えたりする。これはゲームマスターが一方的に行うのではなく、プレイヤーの方でも、ゲームマスターが言ったルールが現実と食い違うと思ったら修正を要求する。例えば「このキャラは建物の陰に隠れているのだから、矢の防御に修正があるはずだ」というように。そしてゲームマスターはそれが理にかなっていると判断したなら言う通りにルールの方を修正しなくてはならない。 このシステムは、「現実はプレイヤー全員にとって周知の事実である」という仮定によって成り立っている。石を投げたらどのくらい飛ぶか?人間の走る速さはだいたいどのくらいか?こういった問いに対する答えは一つであり、議論の余地のないものである。プレイヤーはこうした問いの答えを「常識」として皆知っている。だから「常識」イコール「ルール」である限り、プレイヤーはルールをすべて事前に知っていると言える。すべての人が知っている「常識」をベースにしてゲームをするなら、ルールをいちいち明文化しなくても問題は起きない。ルールは必要になったらその都度常識に合うように作ればいいのだ。 まとめよう。TRPGでは「ルール」イコール「常識」だ。そしてこれはプレイヤー全員が予め知っている。TRPGではゲームマスターがいて、常識をゲーム上のルールに置き換える役割をする。そして、ゲームマスターと双方向にやりとりができるからこそTRPGはゲームとして成り立つ。逆に言えば、ゲームマスターと緊密なコミュニケーションが保てない場合にはTRPGはゲームとして成立しない。 相手のプレイヤーが考えていること、あるいはしようとしている事はわからない。相手と同時に行動するタイプのゲームではこれが重要になってくる。対戦格闘ゲームがこれだ。多くのゲームでは、例えば打撃技に対しては防御、防御に対しては投げ、投げに対しては打撃が有効だ。 しかしこれだけでは単なるジャンケンであってゲームにはならない。対戦格闘ゲームには、時と場合によってそれぞれ有利不利がある。投げが得意なキャラクタがいたり、打撃技で一発逆転が狙える状況だったりする。そのような時、誰しも自分に有利な手を積極的に狙っていく。しかし、相手の手を予想して適切な対処をすれば、それだけで相手より有利にゲームを進められる。 しかし、相手の手を読まれる事をも予想して、さらにその上を行くことも考えられる。相手もさらにその上を予想して……と、どこまで行ってもキリがない。これはジャンケンでさんざん繰り返されてきた事だ。結局何も考えずにランダムに手を出すしかないのだろうか? いや、「ランダムに」というのは正しいが、「何も考えずに」というのは正しくない。理論的にはある行動をある確率で選ぶという戦略にすべきだ。なぜなら、ワンパターンな行動では相手に見破られてしまうからである。行動が予想されると不利になる。だから、相手が見破ることのできない乱数を取り入れるべきだ。しかし、それぞれの手をどんな確率で選ぶかというのは考えないといけない。ジャンケンと違ってそれぞれの手で条件が違うからだ。投げが得意なキャラなら打撃技も混ぜつつ投げを高い確率で選ぶようにする。どのくらいの確率で混ぜればいいのかは、自分のキャラと相手のキャラ、そして相手の性格によって変わる。それを考えることで「ゲーム」になる。 この種のゲームには、理論的には「ミニマックス解」という最適解がある。双方がお互いを負かすために最善をつくせば、どの手をどの確率で選べばよくてその結果どのくらいの確率で勝つかである。これは一方のプレイヤーだけの戦略の話ではない。双方がお互いに最善をつくした時の双方の勝率の話である。 ミニマックス解というのは「均衡点」である。将棋や囲碁の場合と違って、ミニマックス最適解をプレイしていれば常に勝てるというわけではない。あなたがミニマックス最適解に従ってプレイしていても、相手にはそれに上回る戦略がある。しかし、その相手の戦略に対しても対抗手段をとることができ、その結果相手は損をする。結論として、双方が最善のプレイをする限りどこかの解に落ち着く。これがミニマックス解である。 つまり、ミニマックス解というのはあくまで「相手が最善のプレイをするなら」という仮定の上で成り立っている話である。しかしあなたがもしそう思い込んでいるなら、相手は最善のプレイをしない事であなたを負かすことができるのである ここが将棋や囲碁などの完全情報ゲームと違う点である。将棋の最善手は相手がどんな手を打ってこようと常に最善であり、相手が最善手以外を打ってきたら必ず有利になる。 。ボードゲームをやり込んだ人なら、「普通に考えたら明らかに不利な手をやられて負けた」という経験もあるだろう。こんな場合に相手を非難する人もいるがそれは筋違いだ。ルールで認められている以上、勝った人が勝ちで負けた人は負けだ。 相手の戦略を推測するのはこのように奥が深い。だから面白い。 相手の戦略を推測するのは面白い。しかし、この面白さをだいなしにする方法がある。それは戦略を持たないことだ。何も考えず、ただランダムに手を出すことである。相手が何も考えていなければその行動を推測することはできない。 ランダム戦略の代表はジャンケンである。プレイヤーがランダムに手を出すように決めた瞬間から、それはゲームではなくなってしまう。相手の行動を推測することができなくなり、自分も考えることがなくなってしまう。 正確に言うと、ランダム戦略とは単にランダムに自分の手を出すだけではない。「自分はランダムに手を出す」と宣言し、相手の手は見ず、相手とは無関係にゲームの手を選ぶ。これでは「相手がいる」というゲームの特徴が無意味になってしまう。ゲームではなくなってしまうのだ。 ダウト系でこの問題は起きやすい。「自分の手を見て、その手の通りプレイするか嘘をついて違うものをプレイするか決める。他のプレイヤーはその嘘を見破る」というタイプのゲームで、自分の手を見ずにプレイする手を決めることだ。その手が嘘かどうかはプレイした本人にもわからないから、嘘を見破るには運に頼るしかない。すると完全に運だけのゲームになってしまう。 マイナーなゲームで恐縮だが、「チャオチャオ」というゲームでこの現象が良く起きる。このゲームはダイスの目の通りにプレイするか嘘をつくかをプレイヤーが決め、その嘘を見破るというゲームだが、ダイスの目を見ないという戦略がかなり有効だ。それをしてしまうと単なる運のゲームになってしまう。 カードゲームで、自分の手をシャッフルしてランダムに出す人がたまにいる。これも同じようにランダム戦略であり、ゲームを台無しにしてしまう行為だ。ただ、ほとんどのカードゲームではこれはあからさまに不利な行為なので、あまり問題にはならない。「何も考えなければ負ける」ゲームなら問題はない。プレイヤーは負ける事はしないからだ。問題は「何も考えなくても勝つ確率が減らない」ゲームである。 この現象が起きるゲームは、普通に考えるほど少なくはない。いくつかのゲームで起き、そのせいでゲームはつまらなくなってしまう。しかしそのプレイヤーを責めてはいけない。ゲームではどんな手をとってもいいのであり、それでつまらなくなってしまうとしたらそれはゲームのルールが悪いのだ。 ゲームは考える遊びだから、考えるための情報がないといけない。しかしすべての情報が与えられてしまうと、理論的な最適解が存在することになり、ゲームというよりパズルに近いものになってしまう。 適度に情報が隠される事で、プレイヤーはその情報を推測することができる。それによってゲームはより複雑になり考える幅が広がる。相手の戦略を考えるのは奥が深く面白いゲームになる。ある程度予測ができ、それでいてある程度の不確実性があるのがよい。 しかしルールを隠してはいけない。ルールというのはゲームデザイナーが勝手に決めるものであり、推測しようにも必然性がないからである。隠されたルールがあることすらプレイヤーは知りようがない。だからそんなルールは無視されるか、あるいはイカサマをしているとしか思われない。ルールとして提示された以外のことはしてはいけない。 さて、次にゲームバランスの話をしよう。ゲームの良し悪しを語る時に、「ゲームバランス」という言葉がよく使われる。ゲームバランスはあった方がいいと一般に思われている。しかし、ゲームバランスとはいったい何だろうか? ボードゲーム「スコットランドヤード」は泥棒役と刑事役に分かれて追いかけっこをするゲームだが、あまり勝率のバランスは取れていない もしかしたら「いやそんな事はない」と主張する人もいるかもしれないが、ここではスコットランドヤードの勝率の話をしたいわけではないので少々ご勘弁願いたい。 。普通にやると多くは刑事側の勝ちに終わる。しかし、それにも関わらずこのゲームは非常に面白い。つまりは、ゲームにおいて勝率が五分五分である必要はないのだ。 ゲームは「勝ちを目指すもの」である。だから相手の方が多少有利でも問題はない。いや、自分が不利な方がより望ましいともいえる。難しいゲームになって、より考える事が多くなるからだ。勝率が皆等しいという意味でのゲームバランスはなくてもよい。 しかし、多くの対戦ビデオゲームではそうなってはいない。それはプレイヤーが「勝ちを目指すこと」ではなく「勝つこと」に重きを置いているからであり、それはゲームのプレイヤーとしてはあまり良くない行動指針である。ゲームの結果ではなく過程を楽しまなくてはならない。ゲームの過程を楽しめる健全なプレイヤーであれば、ゲームバランスというのはあまり問題にならない。 とはいっても、筆者も含めてなかなかそういう境地には至れないのであるが。 結論。それぞれのプレイヤーの勝率を等しくすることはあまり重要ではない。 とはいっても、対戦格闘ゲームで明らかに相性の悪い相手と戦って、手も足も出ずに終わるのはいかにもつまらない。普通、「ゲームバランスが悪い」というのはこういうことだ。ゲームバランスが悪いゲームは面白くない。しかしゲームバランスとは勝率の事ではない。ではゲームバランスとは何のことだろうか。 ゲームとは勝ちを目指すものである。だから、ゲームをする以上プレイヤーは等しく勝ちを目指せるものでなくてはならない。これがゲームバランスである。「等しく勝ちを目指せる」と「等しく勝てる」というのは同義ではない。結果ではなく過程が重要なのである。 対戦格闘ゲームの相性の問題では、「負ける」のが悪いのではなく「手も足も出ない」のが問題なのである。つまり、最初から勝ちを目指そうにもどうやっても勝てない状況にあることだ。あるいは最初からガードを固めて返し技を狙いにいくしかない状況だったり、相手のジャンプに反応して対空技を出すしかない状況だったりする。このように、勝つために取れる戦略が限られてしまう事が問題である。この場合、弱い側だけではなく強い側もゲームとしてはあまり面白くない。ワンパターンで勝ててしまい、考える楽しみがなくなってしまうからである。 ゲームバランスが悪い状態というのは、あるプレイヤーにとって必勝手順が見えてしまっていて、相手プレイヤーがどうしてもそれを破れないという状態のことだ。これは結果(勝敗)とは関係がない。必勝手順とは「この手が他のどの手よりも良い」という手順のことで、それは勝つための手かもしれないし、絶望的な戦いの中でのせめてもの抵抗かもしれない。もしあるプレイヤーにとって「ガードを固めて反撃を狙う」以外に勝てる気がしなかったとしたら、それはいかに確率が低いものであろうと「必勝手順」である。 ゲームは勝つために考えるものであるから、その手順がわかってしまったらもうゲームをやる意味はないわけだ。「ゲームバランスが悪い」というのはそういう状態のことだ。 近年、プレイヤー同士が最初に同じ状況になっていないゲームが増えてきた。代表的なものが上で例に出した対戦格闘ゲームだ。それぞれ少しずつやれる事の違う「キャラクタ」を持って、最初から差のついた状態でゲームが始まるようなシステムである。普通は「差」といっても絶対的な差ではなく、プレイヤーごとに行動の有利不利に差ができるという程度だ。これはプレイヤーごとに違う戦術を取れるようにし、より奥の深いゲームにするためのシステムである。 しかし、これによってゲームは複雑化し、組み合わせによっては最初からゲームにならない場合も出てきてしまう。性能に差があるだけではゲームにならないことはないが、戦略の幅が狭まってしまうのは問題である。自分のキャラクタの有利さを完全にカバーしてしまうような能力を持ったキャラクタがいると、自分が不利に立たされるだけでなく、どうやっても勝てないという状況になってしまう。これが「ゲームバランスが崩れた」状態である。 プレイヤーごとに異なる特徴を持たせるのはゲームをより奥深いものにするが、組み合わせによってはプレイヤーの戦略が狭まってしまうこともある。なぜなら、あるプレイヤーが「○○に強い」ということは、別のプレイヤーにしてみれば「○○で争うのは得策ではない」ということであり、それはすなわち戦略の幅を狭めることだからだ。キャラクタごとに有利不利を持たせる場合は、それがあまり大きなものであってはならない。「○○で争うことは多少不利ではあるが、それでもやってみる価値はある」という程度でないといけない。 キャラクタごとに差をつけるのであれば、有利不利をつけるより別のルールを付け加えた方が戦略の幅が広がる。TCGの多くがこの方法で独特の面白さを出しているし、対戦格闘ゲームにも一人か二人くらいは通常ルールを無視したムチャクチャなキャラがいる。しかしこの方法を取ると、組み合わせによってはまったくゲームにならない可能性も出てくるので注意が必要である。 ゲームが進むに従って取れる戦略が多くなるゲームと少なくなるゲームがある。前者を拡大系、後者を収束系と呼ぼう。例えば「カタンの開拓」はゲームが進むに従ってたくさんの資源が取れるようになって、一ターンにいろいろの事ができるようになる。これが拡大系である。逆にチェスでは駒の取り合いになってだんだん少なくなり、最後には片方がキングだけになってどうしようもなくなってしまう。これが収束系である。 収束系の場合は一つのミスが致命的になりやすい。だんだん取れる手が少なくなってしまうからである。どこかで一度差が開いてしまうと、取れる手が少なくなってしまっているせいで挽回することができない。このようなゲームは1 プレイが短いか、もしくは投了することによってゲームを終われるようでなくてはならない。あるいは一度均衡が破れたらそのまま一気に勝てるようなスタイルにする。勝つ見込みがないままだらだらとゲームを続けさせられるのはまさに生き地獄だ。 収束系のゲームは古くからのゲームに多い。チェスは例に挙げたとおりだが、ハーツなどのトリックテイキングゲームもそうだ。最初は13枚の中から選択できるが、1枚ずつそれが少なくなり、最後のトリックは選択肢がなくなってしまう。この場合、1ゲームとは13トリックであり、ほんの数分で終了する。 収束系のゲームは面白いのだが、作るのが難しい。プレイ時間は短く、一回のミスが致命的な緊迫したゲームになる。この手のゲームがなかなかないのはここに原因がありそうだ。 多くのゲームは進むに従ってやれる事が多くなる。これを拡大系と呼ぼう。ゲームが進むに従ってパワーアップしたり、自由に動かせる資産が増えたりする。これが度を過ぎると、ゲームに勝つことより規模を拡大する事を目指す「育成系」のゲームになってしまう。 拡大系のゲームの特徴はとれる手の幅である。収束系のゲームの場合、手の幅を広くしようとすると、最初から幅広い手を用意しておかなくてはならない。しかし途方もない数の「手」が用意されても、普通の人はただ呆然とするだけだ。拡大系の場合は、最初は少ない選択肢を用意しておいて、それをだんだん増やしていくことができる。 拡大系のゲームではゲーム序盤は基礎固めである。将来を見据えてどこを強化しつつどう戦うかの計画を立てる。そして小競り合いを経て終盤へと突入する。今まで積み重ねてきた資産で総力戦をし、決着をつける。このように一つのゲームで様々な種類の楽しみが味わえるのが魅力である。 しかし、拡大系のゲームではいくつかの落し穴がある。その一つはゲーム時間が長くなることだ。ゲームで面白いのは方針を決める序盤と決着をつける終盤であり、ゲーム時間が長くなってしまうと比較的面白さに欠ける中盤が長くなってしまう。俗に「ゲームがだれる」と言われう現象である。中盤が長くなってそこでいろいろな事がありすぎると、序盤で方針を決める意味が薄くなってしまう。序盤でどんな方針をとっても中盤で簡単にひっくり返されてしまうのでは序盤を戦う意味がない。ゲームは将来を見据えて策略を練るものであるから、将来が遠くなりすぎると見据えることができなくなってしまう。ゲームのゴールは最初からそれに向かって走れるくらいには近くに設定すべきである。 拡大系のゲームはプレイ時間が長くなっていわゆる「育成系」になってしまいがちである。俗に「シムシティ系」と呼ばれるゲームでは、勝敗より自分の美しい街を作ることにこだわってしまう。これはゲームではない。ゲームでは強さこそが善であり、それ以外のものを評価すべきではない。 こうなってしまう原因は相手との関わり合いが少ないからである。序盤でこういう街を建てようと思ったとおりに街が建てられてしまうからこういう事が起きる。しょっちゅう相手の介入があり、相手の戦略に応じて街を変えていかなくてはならないゲームではこんな事は起こらないはずだ。相手がいてもいなくても変わらないものはゲームではない。 ゲームの時間について少し書いたが、時間制限というのはゲームを面白くする上では重要である。時間制限のないゲームは間延びしがちだ。特に拡大系のゲームでは顕著である。ゲームには時間制限をつけ、「引き分け」を用意すべきだ。ここで言っている「時間制限」とは実際のプレイ時間のことではなく、ターン数制限のことである。 拡大系のゲームでは一般的にいって戦力差は広がる。建物を建てて資源を採掘して兵を作るという普通のRTSを例にとってみると、序盤に資源をたくさん採掘して建物をたくさん建てた方ほど有利だ。建物をたくさん建てるとさらに資源を取れるようになり、さらに強い兵隊を作ってさらに建物を建てられるようになる。 このようなシステムだと、いったん相手よりほんの少しでも有利になったら守りに入ればよい。相手に何かする隙を与えないようにして、時間をどんどん延ばしていけば、それだけでだんだん差は広がっていく。「ジリ貧」といわれるものだ。こんなゲームではよくない。「守り」というのはすなわち、相手の選択肢を狭めることで相手の挽回のチャンスを減らすことだ。これはゲームのプレイとしては正当なものだが、相手を何もできない状態にしてしまってはゲームの楽しみがなくなってしまう。もちろん相手だけでなく自分もつまらない。 この場合、悪いのは守りに入った相手ではないから、守りに入ることを非難してはいけない。相手はゲームの原則に忠実な良いプレイヤーである。悪いのは守りに入るだけで勝ててしまうゲームデザインだ。相手に文句を言う前に、そんなクソゲーはやめるべきだ。 かといって、その差がすぐひっくり返せるようでは、なんのために有利になるために懸命に策略を練ったのだかわからなくなってしまう。有利な行動をとったら有利にならないといけない。 こんな時には時間制限を設けるとよい。すると、プレイヤーは相手より少し有利になるだけではダメで、時間制限内に完全に負かせるほどの差をつけないといけなくなる。時間延ばしの守り戦術はとれないようになり、自分も相手も考える事が増える。 コンピュータRPGではよくこの問題が見られる。世界の危機だというのに時間制限が何も設けられていない。多大な危険を承知の上で急いで敵の城に向かっても、ちまちまとレベル上げをしながらのんびり向かっても相手の状況に変化がない。本来なら急いで敵の城に向かえば敵の準備が間に合わない所を攻めることができて楽に落城させられるはずなのに、ほとんどのゲームでは敵の量に時間要素が考慮されていない。だから少し怪我をしたらすぐ帰って宿屋で寝るといった、お気楽サラリーマン状態になってしまう。根気よくレベル上げをすれば誰でもクリアできるようになってしまっていてはもはやゲームになっていない。 結論。時間制限(ターン数制限)を設けないと、プレイヤーは守りに入ってしまってだらだらと時間だけが過ぎてしまう。そのプレイはゲームの原則からすると正しいだけに問題だ。守りに入るだけでは勝てないようにルールを設定せよ。それはゲームデザインの問題である。 ゲームバランスを取るてっとり早い方法に、複数人のゲームにするという方法がある。そして「トップの人を皆で引きずり降ろす」という約束にする。こうするとデザインがどうあろうとプレイヤーは自分たちで勝手に戦いあってバランスを取ってくれる。これがマルチプレイヤーゲームである。ゲームデザイナーからすると楽でいい。 典型的なマルチプレイヤーゲームでは、相手を積極的に邪魔することができ、それによって利益を得られるように設定される。しかし相手を邪魔できるということは相手にも邪魔されるということであり、そのバランスをどうとるかというのがプレイヤーの考えどころである。多く場合はあまり目立たずこっそりと漁夫の利を得るような戦法がうまくいく。このあたりは微妙であり、だから面白い。 マルチプレイヤーゲームのデザインで吟味しなければいけないのは他人への干渉のバランスである。他人に干渉できないとゲームとして面白くならないが、干渉できすぎると自分のプレイが相手まかせになってしまう。マルチプレイヤーゲームと称するゲームでは他人への干渉度が大きくなるように設計されがちだが、そうすると自分なりの作戦より相手の出方の予想とそれの対応を考える事に意味が出てくる。全員が作戦より相手の出方を考えた時点で、正確に言えば全員が「全員が作戦より相手の出方を考えているだろう」と考えた時点で、盤上の情報には意味がなくなってしまい、ゲームは単なるジャンケンになってしまう。相手に干渉するだけでなく、自分でコントロールできるものもなくてはならない。 もう一つ、序盤に誰か一人が標的になってしまうという問題もある。序盤では全員がほとんど同じスタートラインに立っているから、終盤のように「トップを引きずり降ろす」という方針を適用できない。その結果、偶然にだれかがターゲットになってしまい、その人は偶然のせいでひどく出遅れてしまう。その人がキャスティングボートを握ってうまく立ち回れるようならよいが、それほどの手腕のないプレイヤーだと何もできずに終わってしまう。 ただ、マルチプレイヤーゲームは逆にそんな状況でもうまく立ち回ることができる。上位陣がトップ潰しを続けている間にうまくキャスティングボートを握って追いつくことができる。こういう意味で、マルチプレイヤーゲームは人間的なゲームである。論理的な思考より交渉が重要視される。それだけ面白いのであるがそれだけ難しい。ある程度の経験と慣れが必要である。 もしコンピュータを相手にしたマルチプレイヤーゲームを作ろうと考えているなら、それはやめた方がいい。思考ルーチンを作るのが非常に難しいからだ。そしてその思考ルーチンこそがゲームの面白さのすべてである。人工知能の研究をしたいのでなければそんな大それた事は考えない方がよい。 いきなり別の話で申し訳ないが、ゲームバランスに関係してTCGにおけるレアリティの役割について一言述べておきたい。 TCGにおいて「レアなカードは強い」という誤解がある。これは間違ったゲームデザインである。TCGにおいて、強いカードはコモンでなくてはならない。レアなカードは「強いカード」ではなく「変なカード」であるべきだ。レアカードがあれば誰でも優位に立てるようなTCGはゴミである。それはゲームではなく単なるカード集めだ。 そもそもなぜTCGがゲームとして機能するのだろうか。TCGではゲームの外の要素(つまりはプレイヤーの資金)がゲームの中に入ってきてしまっている。これは本当は良くない事だ。これを単なるゲーム会社の金儲けの手段だと言うのはたやすいが、このシステムはそれなりに理にかなったところがある。 以前、TCGはすべてのカードの種類と効果を覚えてからが本当のゲームだと言った。TCGは複雑さを楽しむゲームだが、そのせいで覚えるのがとても大変なゲームである。これではTCGのプレイ人口はなかなか増えないだろう。TCGという形態は、ゲームを覚えながら楽しめるシステムとして優れている。 TCGをこれから始めようという人には、あまり変なルールのついていない基本的なカードであるコモンカードを提供する。これはTCGの基本戦術である。これを使ってゲームの基本的なやり方と戦術を覚えてもらい、これがどういうゲームで何を考えればよいのかを会得してもらう。そしてゲームにハマってカードを買い足していくうちにだんだんと複雑なルールのカードが揃っていくというわけだ。膨大なルールと初歩戦術をゲームをしながら修得できるというわけだ。 だから、基本戦術で十分戦えるようなものでないといけない。どのカードも基本的に優劣はあってはいけない。カードの量は戦術の幅にしか影響せず、絶対的な強さには影響がないようにすべきだ。将棋で言えば、カードが少ない人は矢倉戦法一筋の人で、カードが多い人は居飛車も振り飛車も、あるいはまだ名前もついていないような突飛な戦法もできる人だ。後者の方が面白味は増すだろうが、一つの戦法をじっくり研究するのもまた面白い。そして一つの戦法を研究しつくす事でさえアマにはなかなか難しく、矢倉戦法一筋でもかなりの勝率を上げることができる。TCGもこうあるべきだ。 初心者向けの戦法というのは、変化が少なくあまり多くの要素を考えなくていい戦法である。言い替えれば「これなら戦術が明確で失敗することが少ない」という戦法だ。そして熟練者向けの戦法とは「この戦法は細心の注意が必要で、一つ間違うと大失敗につながる」という戦法である 囲碁で言えば前者がツケヒキ定石やツケノビ定石で、後者が大ナダレ定石である。基本定石だからといって弱いわけではなく、プロでもツケヒキやツケノビは打つ。 。コモンカード主体の初心者デッキは前者、レア主体の熟練者デッキは後者であるべきだ。コモンカード主体でも、うまくやれば細心の注意を払いそこねたレア主体のデッキに勝てなくてはならない。 ゲームバランスというのは勝率のバランスではなく、取れる戦法の数のバランスである。ゲームの楽しみは勝つことではなく勝つための戦法を考えることだからだ。どのプレイヤーもあれこれ戦法を考えることのできるゲームがゲームバランスの良いゲームであり、考えることがなくなってしまうのがゲームバランスの悪いゲームである。 ゲームとは相手の手を考えて対応することだから、相手に考えることがなくなると自分にも考えることがなくなってしまう。ゲームをデザインする時には、このような状態になったらなるべく早く勝負がつくようなルールを考えるべきだ。 「ゲーム論」と称して、ゲームに関するいろいろな事を述べてきた。ボードゲームの話とビデオゲームの話がごっちゃになっているせいで混乱したかもしれない。しかし筆者の言いたいのはボードかビデオかという媒体の違いではなく、その底に流れる「ゲーム性」についてである。これについて考えるきっかけとなれば幸いである。 今までにRPGの例とTCGの例を比較的多く出した。この2つのタイプのゲームが現在日本で辛うじて生き残っているゲームであり、かつよく誤解されてゲームではない何かになってしまっている例だからである。そしてまたゲームを知らない人が比較的手に取りやすいジャンルである。ここが問題になっている。 RPGとTCGは掟破りのゲームジャンルである。掟を破ったのはゲームにつきものの制限を取り外し、ゲームに新たな面白さを加えるためである。しかしその反面、ゲームというものを知らない人にとって掟を破ったところだけが目につくようになってしまう。 本当は、RPGやTCGはゲーム慣れした人でないとうまく遊ぶことができない。もともとの「ゲーム」の発展形だからだ。RPGやTCGの入門には普通の「ゲーム」を用意すべきなのである。しかし残念なことに、その代わりに既存のRPGやTCG を簡略化したものが用意されてしまった。相対的に「ゲーム」部分は薄まり、掟破り部分の比率が高まった。そしてそれを「ゲーム」だと間違えて受け止められてしまった。 現在あるゲーム(特にビデオゲーム)は、すべていわば「キワモノ」である。様々な形で発展を重ねたその先のゲームだ。しかしキワモノばかりで王道ゲームが廃れてしまっている。その意味で昔のゲームが最近復刻され始めているのはいいことだ。原点に触れて、いろんな要素で薄められていない生の「ゲーム」を味わってほしい。そして、ゲーム以外の要素が削られた「ボードゲーム」をやって、アニメでも音楽でも映画でもないゲーム本来の面白さを知ってほしい。そう思う次第である。
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